国籍と闘病の壁を越えて―木村尚敬さん

自分のアイデンティティーを探し求めて

私のうちは韓国人移民の家系です。父と母は済州島にルーツをもつ、ピュアな韓国人です。祖父母の代から日本に来ているので、私は在日韓国人3世ということになります。

両親とも日本で育っているので、基本的に家庭では日本語で過ごしました。両親ですら韓国語はちょっとできる程度。崔洋一監督が、『月はどっちに出ている※1』 という映画をつくりましたけど、まさにあんな感じで、私の家では100%日本語でしか会話をしません。

今から30年以上前は、まだ外国人に対する想像以上の差別があった時代でした。物心ついたころから、自分のアイデンティティーはどこにあるんだ、ということをいつも考えていました。日本にいると、在日韓国人としてマイノリティの存在、しかし戸籍上の祖国である韓国においても在日でしかも一言も韓国語をしゃべれない人間というのは、ある意味愛国心のない裏切り者のような見られ方だったんですよね。

よしんばそこを抜きにしても、韓国の中で済州島というのはド田舎、都会っ子のソウル市民からしてみれば田舎者ということで、これもまたアウトロー的な位置づけ。高校時代まではこうした現実から目を背そむけて生きてきましたが、成人するにあたりいよいよ真剣に考え始めました。

ただ、オリンピックなどの日韓戦でも、気持ちの中では100%日本を応援している自分がいる、言葉も日本語しかしゃべれない、生まれ育った東京で納豆とみそ汁を好んで食べている自分がいる、「ああ、俺はアイデンティティーは日本だな」と強く思いました。

※1 『月はどっちに出ている』…在日コリアンのタクシー運転手とフィリピーナの恋を軸に、在日外国人をはじめ東京でたくましく暮らす様々な人々の姿をエネルギッシュに描いた悲喜劇。

就職困難と闘病生活

とにかくいちばん困ったのは就職。1980年代は韓国籍の人が日本企業に就職するのは極めてハードルが高くてほぼ無理でした。私は一応、附属高校から慶應義塾大学までいったので、同級生はみんな○○商事とか〇〇銀行とかの名前のある会社に就職するわけですが、親のコネでもない限り、そういうところに外国人は就職できません。そんな現実に直面したのです。

外資系もありましたけど、残念ながら私及び家族はインテリジェンスが高くありませんでした。うちの親父は、「ここだったら口をきけるよ」と韓国系の銀行を勧めてくれましたが、「なんか違うよな」と思っていました。それで「帰化」しようとしたのです。日本国籍にすれば日本人として就職できますから。

日本国籍への帰化を試みるものの…

帰化なんてやったことがないからわからないと思いますが、ものすごくハードルが高くて、当時は申請してから通るまでに2年くらいかかりました。その間、駐車違反とか軽微な違反もしてはいけないのに、なんと私は申請中に交通事故を起こしてしまったのです。

このまま申請をしても、認められないという前例ができてしまう。すると次にいつ申請できるかわからないので、そうなる前の段階で申請を取り下げました。つまり、学生時代に日本国籍を取得して就職しようという目論見が、見事に崩れ去ってしまったのです。

 

それで「しょうがないな〜」と、消去法的に自分で仕事を始めることにしたのです。実際、父親だけでなく親戚ふくめて自営業が多いので、起業ということに対する抵抗感は全くありませんでしたからね。

在学中の起業と卒業、そして闘病生活へ

起業したのは20歳のとき。いろいろありましたけど、20歳かそこらで消去法とはいえ自力で会社を起こさなくてはいけなかった自分は、スムーズに大学から一流企業に就職できた人と比べて、「なんか人生ハードだよな」なんて思ったりもしたものです。その5年後に、再度帰化申請をして日本国籍を取得し、現在に至っています。

22歳、大学を4年で卒業しました。「これからは仕事を頑張ろう!」と思った矢先、今度は内臓系の病気を患ってしまい、結局10年ちょっと闘病することになりました。今はピンピンしてなんともないのですが、実は結構シリアスな状況だったのです。

最初に発病したときは、「このまま進行したら命が危ない」といわれ、1年くらい入退院を繰り返しました。20代半ばで病院の天井を見つめながら、「このまま死んじゃうかもしれない。やべーな、本当にどうしよう……」と煩悶したことを思い出します。

痛みなどはないものの、とにかく無理をしてはいけない。身体に負担をかけてはいけない病気だったので、20代のころはなるべく楽な生き方というか、これまでの人生の中ではアイドリングの期間でした。大好きなお酒も禁止されていたので、一番ヤンチャ盛りな20代前半から10年以上、実は私、1滴もお酒を飲んでないんですよ(笑)。

いちばん頑張れる時期なのに、それができなくて悶々としていました。それでも、いろいろなものを輸入したり輸出したりという貿易の仕事をしていて、何か自分の中に闘争心がありました。最初のころは腐っていましたが、もともと韓国籍というハンディ戦をやっていて〝ルサンチマン精神* 2 〞みたいなものがあったし、だんだんと「なにくそ、今に見てろ!」というふうになっていった。

困難な状況になればなるほど、チャレンジ精神が湧いてくるといったほうがいいかもしれません。

大学院への進学と病のリスクを背負っての海外留学

ちょうどそのころ、1995年くらいに「グロービス」に出合いました。自分で会社をやっていましたが、ルールも知らないでビジネスというケンカをしていたようなものだったので、「真面目にルールを学びたい」と思ってグロービスに通うことにしたのです。そこで学んでいるうちに、いろいろと思うところがあって、自分がやっていた仕事は一緒にやっていた人にバトンタッチして、私は海外留学をすることにしました。まだ病気が完治していたわけではないので、向こうで発病したらどうなるかわからないというリスクもありましたが、「そのときはそのときだ」と覚悟を決めたのです。今思うとそれなりにリスクがある大きなチャレンジでした。

留学から帰ってきて経営コンサルタントの道に入り、いくつか渡り歩いた後、2007年に今の会社に参画することになりました。留学から帰ってきてほどなく、治療法が確立されて完治できたのです。今はお酒を飲んでも何をやっても平気です。

国籍と闘病振り返るとこの2つのハンディ戦は、自分の人生の中ではとても大きかったそれを乗り越えたからこそ、アイデンティティーを再認識することができた。そして今があるということですね。

―木村尚敬( Kimura Naonori )

木村さん 250

株式会社経営共創基盤 パートナー取締役マネージングディレクター1968年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。レスター大学経営大学院修了、ランカスター大学経営大学院修了、ハーバードビジネススクールAMP修了。経営共創基盤にて製造業を中心に経営改革や事業強化など、様々なステージにおける戦略策定と実行支援を推進する。主な著書に『ダークサイド・スキル』(日本経済新聞出版社)がある。

教育界の革命児 高濱正伸さんとの異色のコラボで、2019年に『SD20 20歳からのセルフデザイン』を上梓。

◆SD20の紹介◆
ワクワクする人生は自分でデザインしよう!後悔しない人生を送るために社会に出る前に、社会に出てからも知っておきたい生き方のヒント集あなたはこの先どのように生きていきますか?本書は『ダークサイド・スキル』の著者:木村尚敬さんと花まる学習会の高濱正伸さんによる、ますます不透明さを増す時代に本気で働こうという若者たちを思いながら語り合った熱いメッセージです。

木村尚敬 (著), 高濱正伸 (著)SD20 20歳からのセルフデザイン

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㈱エッセンシャル出版は、「本質」を共に探求し、共に「創造」していく出版社です。本を真剣につくり続けて20年以上になります。読み捨てられるような本ではなく、なんとなく持ち続けて、何かあった時にふと思い出して、再度、手に取りたくなるような本を作っていきたいと思っています。

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